私にとって最高の師であり、永遠の憧れであるレベッカ・スチュワート師に今回久しぶりに再会し、その講習会を奇跡的に受けることができた。
彼女に初めて出会ったのは、2005年まだフランクフルトで学生をしていたころ、モリース・ファン・リースハウト氏の指導により、ティールブルグを訪れたのが初めてだった。
その当時、レベッカのアンサンブルによる、ヨハネス・オケゲムのミサ My Myの録音を初めて聴いた時、大変大きな衝撃と、人生最大とも言える大きな影響を受けた。
卒業後、ティールブルグでレベッカのもとで指導を受けるのが夢であったが、残念ながら、学校は無くなってしまうという結果になった。それでも唯一の私の救いは、1年に一度のモリースの指揮によるアンサンブルSchola stralsundensisでの演奏会であった。
実はそのアンサンブルをきっかけに、私は人生を共にするパートナー、最愛なる夫に出会うこととなる。彼とその同僚とレベッカによって、ハレで講習会を続けていたが、私は子育てに忙しく、参加ができずにいたのがもどかしかった。
やっと長女が小学校に行くようになり、私は久しぶりにレベッカに再会できた。
しかし、私自身、いつの間にか、音楽とは程遠いところにいることを察したのだ。
そもそも、モダール音楽は、バロックやクラッシックのような音調の音楽とは全く異なるもので、根本的に、小説線がない。それどころか、拍感というものすら存在しない。
もちろん、Tempus perfectum などのような拍子の指定はある。しかし、それそのものはひとつの天文学的な要素を含んでおり、多くはそのテキストによっては、象徴的なものを生み出すものと解釈できるのではないだろうか。つまり、3は三位一体であり、2は人間的なものを示す。
また、ソルミゼーションには多くの意味が隠されている。
mi= キリスト
fa = 父なる神
sol= 約束の地 楽園
mi から faによる移行には、人として肉体を持ったキリストが神との架け橋となったことを意味する。
音楽そのものの実態は、キリスト教精神、あるいはもっと高次な、天界なる音楽、宇宙そのものと一体になっており、私たちは残念ながら、その古い”言葉”を失ってしまったのだ。
音響そのものはたえず ヴァイブレーションとして身近に存在しており、そのヴァイブレーション、すなわち聖霊なるものに、チャネリングするのが、音楽のもつ本当の意味であり、私たちが、この地上で生きている存在の中で、”調和”することが最高の行為であること。
しかし、現実は、”自我”との闘いがあり、”無”に成りえない。自己嫌悪に陥るのだ。
レベッカがインドで習った音楽は、まさに、純粋なる天界の音楽を実際に耳にしたことだろう。そして、彼女が老体に鞭打って、弟子たちに教えようとして下さっているのに、私は何年も、遠い世界にいた気がする。
音楽とは、そもそも、”祈り”であり、スピリチュアルな世界に入ることのできる手段である。もちろん、その手段は音楽だけとは限らないが。
インスピレーションとは、"In Spirit " 魂が入りこむということ・・・・・・・・・・。
若いころは、いつだって焦りを感じた。何か学びそびれて置いて行かれている気がした。
自分の世界がすべてだった。
大地に足を踏み、雨上がりの緑の力に圧倒される。
この大地に根を張る植物たちは、あるがままだと。受けるがまま。
人間は地に産まれ、地を喰い、地に還っていく。
もっと、聴き入れて、受け入れていけばいいと思った。