1560年のオルガン
内側は修復されているが今でも素晴らしい音色だ。
私は、この手前側の机の上に乗って演奏した。
下には、礼拝堂がある。
2段鍵盤の足鍵盤なしのオルガン。ルネッサンス様式のオルガンでこのように今でも
残っているのは珍しいのではないか?
オルガンの調律の様子。パイプの下側に、鍵盤を押さなくても良いようにボタンがついて
いて、ひとりで調律ができるようになっていた。
ミーントーンの調律。心地のよい3度が教会に響き渡った。
この演奏会の醍醐味は、何よりも即興。
今回私にとっては初めての試みた。
Pierre SandrinのDolce Memoireや、Cipriano de RoreのAnchor che col Partire
のマドリガルに、ヴィオラバスタルダの旋律を即興した。
自分で即興してみて、二つの有名なマドリガルが、たくさんの作曲家たちによって即興
した理由が頷けるほど、この曲は完成度が高い。しかし、この2曲は対照的で、
光と影のような印象を持つように感じた。
Dolce Memoireの歌詞自体が、謎めいていて、特にOr maintenant a perdu son pouvoir,
の訳は、複数の意味に解釈できるなど、 (彼女は力を失ったのか、お金を失う?)
とても不思議な雰囲気を持つイメージがあり、
(また、特にオルティスのDolce Memoireは中~低弦にかけてを主に使用するなど、
故意にそのメランコリーを表現しているとも考えられないか?)
私はQuintvoceでも、この曲の即興を試みたのだが、それは雰囲気の全く違うものとなってしまった。
それに対して、Anchor...の方は、とてもわかりやすい歌詞で、音楽の構成もしっかりと作られて
おり、クライマックスの作りやすい曲であるのだが、
この2つの曲、それぞれに良さがあると思った。
MonteverdiのOhime や、Henry PurcellのMusic for a Whileはそれぞれジャズを思わせるような
バスのテーマに、移調などの多様性に富んだ面白みのある即興が楽しめた。
おまけ
最近読んだ本の中でヘルマン・ヘッセのガラス玉遊戯という本がある。
その中でクネヒトは、音楽名人に出会って、音楽の即興性に目覚めるのだ。
それはまさに私が今試みようとしていることそのものだった・・・。
ガラス玉遊戯とは・・・
音楽と数学にもとづく特殊な符号と式とを用いて、あらゆる学問や芸術の内容を理解したり表現したりするものである。(発明者は、人道主義者で音楽理論家のペロットであり、文学や符号のかわりにガラス玉を用いたため、ガラス玉を用いなくなってからも、この遊戯はガラス玉遊戯と呼ばれている)。これを行なうには、均衡のとれた高度の知性と感性とが必要なため、この遊戯は、神の礼拝と同様に神聖なものと見なされた。
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