2020年11月25日水曜日

日本の童謡を録音した、その理由について

 子育てに追われる日々、あっという間に時間がたつこの頃。もう5年も経ってしまった。

ふと、自分を振り返ってみると、何か物悲しい、物足りない気持ちに陥る。

同年配の人たちが活躍する姿を見て、自己嫌悪に落ちたりする。

でも、母親となった経験は、何事にも代えがたい貴重な体験だと思う。

人の使命は、有名になって世に名を残すことがすべてではない。

とはいえ、世間と離れた母親業にだけいると、自分だけ取り残されてしまった、やり切れないような思いがするのは、私だけであろうか・・・。

多くの女性が、特に西ドイツは今でも産後から仕事に復帰するのが早い。

半年で、もう子供を保育園に預けてしまう。

音楽家の職業は、幸か不幸か、ちょうど幼稚園が終わった時間から始まる。

私も、小さな赤子を仕方なく預け、後ろ髪を引かれながら、仕事へ出かけて行ったその一人である。

そして、仕事を理由の一つに断乳したその一人である。

今となっては、なんでそんなことをしたのか、と逆に少し後悔もする。

でも、世の中の目を気にしつつも、うちの子供たちは、周りとは遅れて幼稚園に行かせたことは、私たちの誇りでもある。

その時のつらさは永遠のように感じるけれども、お母さん、お父さん、子供の育つのは早いですよ。と、皆さんに伝えたい。


とにかく、私にとって今、音楽は、自分の子供と切っても切れない関係にあるのだ。

夜な夜な続く夜泣きに、疲れた体と戦いながら、夜中歌った子守歌。

子供の寝顔をみて、ほっとして自分も寝てしまったり。

「お母さん、歌って」と、せがまれて一緒に歌った日本の子供の歌。

ちいちゃい、やわらかな手をひいて歩いてきた散歩道に、鼻歌。

私も小さいときにお母さんが何度も歌ってくれた私の思い出の歌たち。


今はドイツにいて、ドイツの生活をして、

海外留学してヴィオラ・ダ・ガンバを極めようと努力して、

西洋人になったかのようにしてきたけれど、

私は日本人で、その血は変えられない。

この曲たちを歌おうと決意する前は、

様々な迷いや葛藤があり、その思いを探っていったら

私の奥深くに眠っていた過去の少女時代の私が、

臆病で、不安で、自信の無い私が泣いているのを見つけた。

私はその小さい私を心から抱きしめて、

もう大丈夫だ。心配ないよ。と囁いた。


私は日本の楽器について何一つ知らないし、

ヴィオラ・ダ・ガンバで日本の曲を弾くのは邪道だと思われるかもしれない。

確かにガンバは西洋の楽器ではあるが、

私にとって楽器は、自分の言葉を伝える手段であって、

国境も何もない。すべてはつながっていると信じている。

音楽ですら、世界共通の言葉であると思っている。


この曲に込めたい気持ちは、いろいろではあるけれど、

まず、祈り。


この難しい時期を乗り越えられるように。


そして、子供たちをもっと愛してほしいということ。

世界中のお母さんたちに伝えたいです。








2020年4月20日月曜日

Hildegard von Bingenの魔法

昨年の5月から、かつてからの夢であった、Hildegard von Bingenの祈りと歌の会が
毎月満月の晩、19時より行われてきた。
しかし、コロナウイルスの影響で、教会での活動はすべて中止。
せっかく続けてきたことだったのに、これからの見通しも立たないので、
これからどのようにしていったらよいのか、考えてみた。

そして、思いついたのが、録音。
子供が寝静まったころ、大体、夜21時ごろ、ひっそり一人で誰もいない教会を訪れる。
19時までは、教会は解放されていて、祈りのためにろうそくがつけてあり、
中に入ると、暖かいろうそくの炎がひっそりと揺れている。
それをみると、なんだか、ああ、帰ってきたよ。という不思議な安堵感がある。

4月とはいえ、まだ寒い。教会の中はその引き締まった空気が、また心地よい。
学生をしていたころは、何時間も練習に向かっていたけれど、
今となっては子育てで忙しく、練習する暇もない。
やっと下の子も、大きくなって落ち着いてきたというのもある。

そして、音楽と向き合う。
ヒルデガルド フォン ビンゲンは、ドイツの中世の修道女で、
その多くは薬草や、ハーブの自然医療法などで知られている。
が、音楽も彼女自身が作曲されていたのは、あまり知られていないのではないだろうか。

彼女ならではの自由な音楽の思想。グレゴリオ聖歌とは全く違った新しい曲想。
驚くほどエロチックで、ある意味人間くさい表現は、魅力的である。
特に、教会旋法の幅を超えた音域の広さと、その自由な発想には、圧巻である。

そして何より、その女性らしい言葉の表現。当時のRiesen codexからのネウマ譜にも
その表現力の広さが伺える。まず、その信仰の思いの篤さが、生生しく伝わってくるのだ。特に、”おお!”とい感嘆詞で始まる表現や、特に1曲の中でも数回でてくる、
Quillisma(声を震わせる)や、Pressus(同じ音が2回)の表現などが印象的である。
また、特に5度は、とても強い安定した印象を受け、ボルドゥン(保続音)からの不協和音、協和音の巧妙なコントラストは見落とせない。

ヒルデガルドの魅力について書いたらきりがないが、
その第一の魅力としては、”インスピレーション”だと思う。
彼女の曲は、中世にして、とても新しい。今となっても、若い枝となって芽吹いてくるような感覚がある。それほどまでの彼女の内の中のビジョンがしっかりと見えていて、
ボケたものではなかったに違いない。
おなじ女性として、彼女の強い霊的な音楽に、毎回感動させられるのだ。


" O Pastor Animarum" ”おお、魂の牧者よ”
Pastor of our hearts and Voice
primordial:
you spoke before the world was
we sprang to hear.
Now we languish,
we are wretched, ill.
Set us free! We beseech,
make us well.
私の魂の牧者よ。
すべてを創造された主よ。
あなたは私の愛するお方
哀れな私たちを自由にしてください。
私たちの病から解放してください!

Karitas habundat in omnia, 
de imis excellentissima super sidera,
 quia summo Regi osculum pacis dedit. 
 Charity rising from the vast abyss past the stars above abounds in all worlds, unbounded love, and with spousal kiss disarms the sky- king.

2020年4月11日土曜日

危機という時は、チャンスでもある。

時に、思いもよらないことも起こる。
コロナによる、世界危機。
音楽家の仕事は、真っ先にキャンセルされた。
ガンバ弾きにとって、受難曲の演奏会のキャンセルは辛い。
私にとって、ガンバを始めたきっかけとなった、バッハのマタイ受難曲。
受難節に、祈りのような音楽を奏でることは、毎年恒例のことだった。
でも、今年は・・・その一番大事な時間が省かれてしまった。

しかし、この演奏会がキャンセルになったため、
私は主人とハレに住む、もう2人の音楽家たちとともに
Alexander Agricola のLamentation Jeremiaeを歌うこととなった。

もちろん演奏会ではなく、Video撮影という形になったが、
私にとってこれは、受難節にはなくてはならない大切な時間に思えた。

もう一つ、去年の5月からもうすぐ1年続けることとなるはずの、
毎月一度満月の日の夜に集まる、ヒルデガルドの祈りと歌の会も、キャンセル。
4年に一度のスーパームーンのこの夜、歌えないのは残念だったこともあり、
この機会に歌うことができるのは、本当に幸せなことだった。

このLamentation 哀歌は、聖書の哀歌2章からなる。
旧約聖書の神は、容赦しない。壮絶な怒りによってイスラエルの民でさえも
滅ぼされる。そのコントラストは、イエスの受難の痛みとよく似ている。

この受難の時、そして、コロナの影響で、普通ではない環境。
いつもとは違う、なにか死と隣り合わせを予感させる深刻さが、
この曲の神話が、何か実話のように実感させられる。
哀歌の聖書の箇所は、何か救いがないように思えるが、
最後に、「神様、どうして私をお見捨てになったのですか・・・」の節は
まさにキリストの最後の言葉でもあり、そこに救いがあることを実感するのである。
Online-Konzert Karfreitag 2020 Johanneskirche

Alexander Agricola (um1455-1506): Lamentationes Jeremiae Prophetae /
Die Klagelieder Jeremias
Gregorianik: Responsorien zur Karwoche
Miyoko Ito – Cantus
Nora Rutte – Altus
Martin Erhardt – Tenor
Till Malte Mossner – Bassus
録音は、このサイトをクリックしてお聴きください。